最初のデザインは縦書きだった
日本で自動車が公道を初走行したのは、1898年(明治31)1月の築地から上野だった。その翌年6月に警視庁が東京府の道路に関する制札の様式を統一する「制札制文例」を通達。これを道路標識のルーツと国土交通省はしている。制札とは、禁令・法規を箇条書きに記して道路などに立てていた札のことで、明治時代は様式(デザイン)が官公署や道府県ごとでまちまちだったが、1899年には、白地に縦書きの黒文字で表記することが定められ、通行止めなどの8種の制札が登場した。 その後、自動車と道路に関する法整備が進められ、1919年(大正8)に「自動車取締法」と「道路法」などの法律が次々と制定。そして1922年(大正11)11月に「道路警戒標及道路方向標に関する件」が内務省から発令される。この省令で道路名や方面、方向、距離などが表示されている「道路方向標」の様式が定められた。これは現在の案内標識に当たる。その様式は四角い看板に、白地に横書きの黒文字で矢印と地名で案内するものとなっていた。 同時に現在の警戒標識に相当する「道路警戒標」も登場。こちらは赤い枠で縁取られた白い三角形の標識があり、その下に白地に黒文字で「学校あり」「右カーブあり」などを文字や記号で記した長方形の標識が配置されるもので、文字は横書きだが現在と逆の右から左へと読む表記だった。 両者が画期的だったのは、初めて様式を全国で統一したことだ。大正時代の後期になって、日本の道路標識は現在の様式の始祖と呼べるものが登場した。
太平洋戦争中の1942年にヨーロッパ方式へ変更
大正時代まで自動車の台数は少なかったが、手動式の信号機が1919年(大正8)に東京・上野に設置され、1926年(大正15)から本格的なアスファルト舗装が始まった。道路が整備され昭和時代に入ると台数も数万、数十万台へと増加。同時に交通事故死者も数千人を記録。これにより道路標識を拡充させる必要が生じてきた。 まず1942年(昭和17)に、1922年の「道路警戒標及道路方向標に関する件」を廃止。同時に「道路標識令」が新たに制定された。ここで「道路標識」という言葉が登場し、その種類は案内、警戒、禁止、制限、指導の5つに大別され、様式や設置方法についても規定が制定され、横書きも現在と同じ、左から右へと読むものになる。特筆すべきは様式で、ヨーロッパ方式をベースとする記号方式に改められた。例えば警戒標識は、赤枠の三角形と文字が書き込まれた長方形のものから、赤枠の中に「文」などの記号で「学校近し」を示すものになり、禁止標識は赤枠の丸い看板に赤い斜線と左折を示す矢印などで「左折禁止」を表すなどのようになったのだ。 ちなみに、この時に横断歩道の指導標識も定められたが、道路にペイントされたものではなく看板による道路標識のみだった。このころアスファルト舗装された道路は少なく、チェッカー型の道路標示が法制化されたのは1960年からだった。 ※横断歩道の道路標示に関する記事はこちら 「前の東京オリンピックの頃、横断歩道はチェッカーだった!横断歩道の歴史」 https://ift.tt/3Ah79Sm
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